シェフプロフィール

片岡 護 シェフイタリアン

東京・西麻布の人気イタリア料理店「アルポルト」のオーナーシェフ。TV・雑誌などに多数登場する、日本を代表する料理界の巨匠。
一般社団法人全日本・食学会シニアアドバイザー。
また、食材や食品の価値を再認識し、将来へ残していくこと。そしてそこから新しい「日本の食文化」を発見・創造していくことを目的に全国で「食育啓蒙(スーパー給食)」や地域産業支援をThemeとした地域活性活動を行っている。一般社団法人超人シェフ倶楽部副会長。

リストランテ アルポルト

シェフプロフィール

リストランテ アルポルト
オーナーシェフ 片岡 護 氏
生年月日 1948年9月15日

片岡護氏は、戦後間もない東京都目黒区に4人兄妹の末っ子として生まれた。
生後間もなくに父親が亡くなり、母親が、自宅を下宿屋として女手ひとつで子どもたちを育て上げたという。しかし、母子家庭にありがちな寂しげな家庭ではなく、学生や勤め人など、つねに沢山の同居人の愛情に囲まれたにぎやかな家庭で、すくすくと人懐っこい少年に育てられたと振り返る。

イタリア料理との出会いは、中学生の頃。
初めてごちそうになったのは、母親の知人である外交官の奥様手作りの「カルボナーラ」だったという。片岡氏の記憶に残るその味は、未来の天職となる。

やがて、工業デザイナーになるべく芸大を目指して浪人までするが、失敗。
芸大といっても、絵画やデザインをめざしたのではなく、将来の仕事を意識しての選択はその後の氏の生き方を彷彿とさせる。
奇しくも「カルボナーラ」をごちそうした外交官が、彼を励まそうとして言った「もし、だめならコックになって、私についておいで」。この言葉が、まさに現実のものとなり、日本総領事付きの料理人としてのミラノへの同行が、道を拓いた。

片岡シェフは、冒険家であると同時に努力家であった。
ミラノへ行きに先立つこと3か月間。氏は「つきじ田村」で鍋を洗い、刻みの修業を行った。エピレシピの撮影現場で、私たちスタッフが時折見せていただける、ゴボウやニンジンの実に繊細なかつら剥きや和風の包丁さばきに、その原点を知る。
イタリアの総領事付きの料理人として赴任した片岡シェフは、昼はイタリア料理、夜は日本料理を作る忙しい日を送りながらも、週に一度はイタリア料理を教わるために現地の市場を回り、多くの厨房に足を運んだ。
そんな時、彼の人生を変える一軒のレストラン「ダリーノ」に出会う。

「ダリーノはまるで日本料理のように、小皿で十数皿が出てくるレストランでした。イタリア料理というのは、大皿でボリュームが多いので、これは衝撃的でした」
氏のお店に一度でも足を運んだ方はご存じだろう。
少量ずつ、たくさんの料理を楽しめる片岡シェフのサービススタイルの原点はここにある。
さらにミラノにはもう一軒、片岡シェフのスタイルを決定づけたもう一つのレストランがあった。
お店の名は「アルポルト」。店主ドメニコ氏が経営する魚介料理の専門店であった。
店内には、とれたての新鮮な魚が並び、レストランを訪れた人々は食べたいものを選び、様々に調理をしてもらうシステムになっていた。
ずらりと並ぶ前菜から好きなものをオーダーすることもできた。
若干23歳。その店のスタイル、そして味やサービスが気に入って何度も通った片岡シェフは、1983年、「アルポルト」をオープンさせる際、ドメニコ氏を訪れ、同じ名前を使わせて欲しいと承諾を得たという。

アルポルト(Al Porto)とはイタリア語で「港にて」の意。
港という言葉はひとつの物事の始まり(出港)と終わり(帰港)を意味する。さらには人生の出発、そして終着を表す。片岡シェフは、この言葉に、そして、その店のもてなしに心から共感したのだ。

20歳で大胆にもイタリアに赴任して5年、シェフ片岡は、日本の地でふたたび修業を始めた。
お世話になった外交官から「日本で一番厳しい店で修業しなさい」。そう言われて選んだ店が「小川軒」である。実は、ここでも目から鱗。この時すでに小川軒では、小皿で料理を提供していた。
先入観なしに、イタリアでさまざまな料理を吸収してきた片岡シェフは、小川軒でも一目置かれつつ、2年間修業。さらに1年をイタリア修業で過ごした。

28歳。イタリアでの修行中に出会った五十嵐喜芳氏と、やがて爆発的な人気店となる「マリーエ」を開業する。片岡シェフはじめての店。
マリーエはオープン当初から、6年間、連日満員だった。オードブルからデザートまで十数品。ミラノ「ダリーノ」で出会った小皿料理をイメージし、創作したイタリア料理の「懐石風小皿料理」。これが、日本でのイタリアン・ブームの火付け役となり片岡シェフは時の人となった。ただし、オーナーである五十嵐氏との契約は6年。
人気店のシェフを失いたくない五十嵐氏と、34歳を迎えた片岡シェフ。
時は、シェフに独立を告げていた。

20歳で、イタリアに渡り14年。
片岡シェフは自分自身の「港」=「アルポルト(Al Porto)」に錨をおろした。

海は、常に凪いでいるわけではない。晴れた日もあれば、嵐も来る。
東京ディズニーランドが日本に登場した1983年のオープンから今年で33年。1986年から91年までのバブル景気に続く失われた10年、リーマンショックや各地の震災など、アルポルトだけではなく、レストランや、そもそも「食を楽しむ」ムーブメントが必ずしも順調ではない時代の中、片岡シェフはアルポルトで粛々と料理を提供し続けた。

さまざまなテレビに出演する片岡シェフ。全国の子供たちに「食育」を届ける片岡シェフ。豪華客船に乗船するシェフ。ミラノ万博で腕を振るうシェフ。そして、未来の料理人を育てるシェフ。片岡護という人は、いったいいつ休むのだろうと思うことがある。
しかし、片岡シェフは、お店ではいつも変わらない。
奥様と二人、あの笑顔でお客様を迎え、お客様が一緒に写真を撮りたいと希望されればにこにこと応え、片岡流のイタリアンでもてなす。

そんなシェフが、2015年、現代の名工(厚生労働省による卓抜した技能者の表彰)」を受賞された。受賞パーティーの席で、発起人のひとりであった友人シェフの言葉が、とても印象的である。
「片岡さんのすごいところは、どんなに人気が出ても、どれだけお店が売れても、ご自身は決して2店目の店舗を持たないところだと思います。アルポルト。その看板を分けても、片岡護の店舗はただ一つ。日本の有名な料理人の中で、こういう人ってなかなかいないですね」

令和3年春の褒章にて、黄綬褒章を受章されました。黄綬褒章はその道一筋に励んだ人に授与される褒章で、長年に亘りイタリア料理の発展、普及に貢献されたことに対して褒章を受けられました。

片岡護の店、西麻布「アルポルト」。
一度、訪れてみてはいかがだろうか。

記事:龍蔵寺烏